「スポーツ集中力」の視点からの
五輪とスポーツ精神の要点メモ
初めに。「インナーゲーム」とは
「インナーゲーム」は1970年代に、元テニスコーチのT・W・ガルウエイ(米国)が発表した集中力に関する考え方で、感情や思考、名誉欲といった「自我」が消えて、無我夢中の集中状態になった時、人間の「本能」の能力が最大限に発揮される、というもので、現在のスポーツ心理学の源流として、日本でも研究者や指導者やアスリートの道しるべの一つとなってきた。
集中力の公式 最高のパフォーマンス=本能の能力―自我(雑念)
また、外側の形では無く、各自の“内部感覚”に意識を当てることで、集中力がさらに深まり、本来の能力を発揮し易くなる、という考え方だ。
“本能とは、筋肉や神経回路など、人の思考部分を除いたすべての“無意識部分”(自分自身の自身)をさし、感情などの“意識部分”(自分自身の自分)からの、教えすぎや力み、こうしなければならないという強迫観念、サクセスしたいという意欲、不安などといった“邪魔”を排除すればば、学習や自己修正など無限の才能を自然に、内側から発揮できる“
逆境が五輪復興の起点に
クーベルタン演説の真意
スポーツの核心部
ラグビーと五輪精神
騎士のように高貴であれ
五輪開催地の偏向
マラソン伝説の取材
フェアプレーとは
勝利には2つの意味が
外側からの誘惑
女子スポーツへの支援
市民スポーツの現状
ヌードになる女子選手
タイトル\(ナイン)
”プロ“アスリートって
アウトドア五輪へ
逆境が五輪復興の起点に
古代のオリンピア競技の起源はBC1450年ごろ、を含めておおむね4説。一般的にはBC776に始まったとされるが、1990年代にデルファイの遺跡で取材した「BC884年説」も興味深い。ギリシャ東部、王イフトスが統治するエレイア地方は、長引く隣国との戦に加えて“疫病”が蔓延する苦難に遭遇。この逆境を乗りこえるため、イフトスはデルファイの神殿に伺いをたて、強国スパルタと同盟を結んでオリンピア祭を「再開」せよとの神託を得たという。ただしこのイフトスの再開五輪の歴史は中断され、4年ごとの定期的開催のスタートはBC776まで待たねばならなかったが、祈りを込めた神聖な儀式の核心は、勝敗や褒賞ではなく、真剣に闘い合う姿そのものを神に捧げる神事だった。
五輪は参加することに意義がある、というクーベルタン演説は、日本ではその後半がほとんど紹介されていないため、学者やマスコミにも誤解が多い。1908年ロンドン五輪で、米国選手団に随行したペンシルバニアのタルボット大司教が、喧嘩騒ぎの続く英米の選手に対して諫めた言葉を、クーベルタンが引用したもので、究極のスポーツ精神を表す言葉として今に残っている。のちに1932年ロス五輪で、以下の英訳が掲げられた。
The most important thing in the Olympic Games is not to win but to
take part,
Just as the most important thing in life is not the triumph but the struggle.
人生と同じように、無我夢中で闘い合う(struggle)こと自体が大切だというのが主旨。「負けてもいいから楽しみもう」との解釈は誤りである。
スポーツ精神の核心部
クーベルタンの言葉は、くしくもスポーツ心理学の源流ともいわれる「インナーゲーム」(T/W/ガルウエイ)の概念に通じる。「無我夢中で、目の前のことに集中していているときこそ、本能のすべてを出し切っている瞬間である」とされ、勝利による栄光や名声、金、欲といった雑念を消し去って、その人本来の能力(本能)があふれ出るとき、人は最高のパフォーマンスを発揮する」という考察は、チクセントミハイの「フロー理論」や日本古来の武道、般若心経にも通じるが、すでにクーベルタンが「勝ったかは問題ではない。いかに真剣に闘い合ったかが大切だ」と、核心部を指摘していた。
共通の方程式:「最高のパフォーマンス=本能の活動―雑念」
英国では、蹴る、持って走るを含めた荒々しい集団球技、フットボールが盛んだったが、1863年、「手は使わない」派がフットボール協会を結成。associationのスペルからサッカーの呼び名が生まれた(早大もア式蹴球部と)。これより早く、ラグビー校では1945年ごろまでに「手も使う」ルールを統一(エリス少年伝説は逸話)、1871年のラグビー協会設立へつながる。学生主導で整備されたラグビーは、青少年の自由で自主的なスポーツとして発展。特に、勝敗よりも全力で闘い合い、終われば健闘を互いに讃え合うノーサイド精神やセルフジャッジが特徴だった。クーベルタンは当時閉塞がちだったフランスから、心の休養もかねて英国へ渡った時、ラグビー活動に大きな衝撃を受け、この体験が「オリンピック再興活動」の原点に。「勝つことではなく。勝つために必死で闘い合うことに意義がある」という、スポーツ精神の核心部は、ここで培われていた。
クーベルタンはスポーツのすばらしさを体験し、これこそが人間に必要なことだと痛感した後、その具現のために1892年、オリンピック再興運動を国際的に呼びかけ、ついには1986年、アテネで第一回近代五輪が誕生した。17世紀に英国で、またギリシャでも国内オリンピックが再興されていたが、「世界平和のためにも」というクーベルタンの政治的な活動からロシアらの協力を引き出して結実。さまざまな駆け引きの末、4年ごとの持ち回り方式が採用された。それが五輪の外側の要素の五輪である。
1935年、クーベルタンは近代オリンピズムの哲学原理として、@肉体鍛錬による祖国民族の称揚A高貴さ、精粋B騎士性C筋力と精神の相互協力の4点を、五輪の内側の要点として締めくくった。
「世界平和・世界平等のために」という外側の核心部は、あやふやである。これまでの五輪は、すべてキリスト教文化圏、もしくは中立的なアジア圏(東京、ソウル、北京の4回)で行われ、イスラム教の文化圏ではただの一度も開催されていない。今世界を2分し、ともすれば対立する宗教文化圏でみると、開催国のリストを見る限りはキリスト教だけの祭典ということにもなる。
また大陸別では、アフリカではまだ行われていない。五輪は、政治宗教を度外視し、たとえば意義のある小国での開催を逆にIOCが援助するような“世界活動”であってほしいのだが。
一命を賭して勝利を報告した「マラソン伝説」には、小学生時代から「敗戦ならいざ知らず、勝ったのになんで?」という疑問が。1991年、他の取材のついでに、マラトンの古戦場記念碑を訪ね、アテネまでの40kmを実際に徒歩で体験してみた。西日の直射日光で水場はなく、焼けた道での低温やけどで足裏が水膨れになった。
BC490年、ペルシャの大軍に東の海からマラトンへ攻め込まれた際、劣勢だったアテネ軍は名将ミルディアテスの鶴翼の陣で奇襲、ちょうど義経が鵯越で平家を海に追い落としたように、奇跡的な勝利を得た。しかしこのために、ペルシャが岬を西へ回航してアテネを海から攻めるのに対抗するため、アテネ軍は大急ぎで帰還せねばならなくなった。必要だったのは「喜べ、勝った」の吉報ではなく、「大変だ。港を守れ」。ただ、プルターク英雄伝ではエウクレスという兵士がそれらしく登場するが、信ぴょう性の高いヘロドトスの「歴史」では決死の伝令については触れられていない。一人の伝令を英雄に仕立てた美談は後世の創作(別項アウトドア五輪参照)とみられるが、。体験した通り、装備をつけたままの灼熱地獄の“大返し”は、相当の数の犠牲者を出したと思われる。伝説はこの強行軍を讃えたものだろう。
フェアプレー精神とは、クーベルタンの言う高貴な騎士道精神であって、特定のプレーを指すのではなく、「フェアにプレーする」という心構えのこと。マラトンの英雄伝説に限らず、小学校の教科書にも載ったにせ美談は数多い。1932年ロス五輪での竹中正一郎さんの「コースを譲った」噺は、5000Mの終盤、追いついてきたトップ2人のためにインコースを空けたというもので、地元記者が「フェアプレーの象徴」として書いて評判になった。しかしご本人は「スポーツは最後まで力を出し切ることが原点。私がそれを裏切るはずがない。よろけて外に膨らんだだけ」と、フェアプレー精神の誤用に憤ったそうだ。近い例では1984年ロス五輪、柔道山下泰輔氏の無差別級決勝噺。右ふくらはぎを痛めていた山下に対し、エジプトのラシュワンは意図的にその個所を攻めなかったと、「フェアプレー賞」まで授与された。しかし双方ともこの事実を否定。山下氏は「万が一、相手の弱点を攻めたとしても、それも柔道の戦略のうち」とも話した。
一方、不調だからとこと前半故意に飛ばして目立ち、自ら”途中りタイア”を演出するような“アンフェア”なプレーはスポーツを汚すもので、選手は憎まないが、事例自体は到底許せない。
勝利には2つの意味が
勝つこと、には2つの側面がある。スポーツは競技である以上、必死になって互いに「勝とう」として競い合うのは当然だが、競技の世界の内側で「勝つ」ことと、結果として栄光に浴し、有名になり、拍手喝さいを浴びる「勝利」とは、スポーツ集中力の観点からは切り離して考えたい。クーベルタンの説いたスポーツ精神とインナーゲームの論理は、奇妙に一致している。
「勝って有名人になりたい」「テレビに出るために頑張る」といった発想は、自分の外側の要素にすぎず、競技の現場から極言すればすべからく”雑念”である。若い選手にそのような発言が目立つが、説教は無用、彼らは無我夢中で本能を爆発させるインナーゲームの名手であって、世間の風潮に押されて口で何を言おうが言わされようが、いざスタート!の現場で雑念に惑わされているわけではないとみる。
一方、経験とともにともすれば外側からの誘惑に惑わされやすくなるベテランこそ、二つの勝利を区別できる「インナーゲーム的な価値観の成長」が欲しい。外側の価値観に依存し続けていると、時間経過や年齢限界で次第に「有名ではなくなっていく」自分を、やがて自ら敗北者と感じるようになる。指導者の責任は極めて大きい。
あるエピソード。
「ハンマー投げに注目してもらうなら、金メダルをとって新聞の一面に報道されることが本来だ」と、テレビ出演も一切やめて、自分の価値観を取り戻し、04年アテネ五輪で金メダルを獲得した。まっすぐに進め、という「専心」は、父重信氏と成田高の恩師滝田詔生氏の教えでもあった。競技引退後も、外側からの誘いに乗らず、学究の道に専心した後、スポーツ庁長官に招かれた。余談だが、テレビに映る自分を全く意識せず、仏頂面で試合に臨むなでしこジャパンは小気味よい。監督はよき指導者である。
最近、「観客に感動を与えたいです」といったコメントを発する選手が多い。闘志に溢れ、実にすがすがしくはあるのだが、”世間一般”の視野から「?」と疑問をe呈する人もいる。インナーゲームの角度からは、精一杯の闘いすることが肝心で、世の中や観客に意識が向くのは、雑念と言うことになるが、それに関してはすでに述べた。。
問題は”上から目線”的な印象である。スポーツが世の中に対して何かを「与える」という言い方に、特に高齢者は違和感を覚えるらしい。気持ちは分かる、特に慣れないインタビューでマイクを向けられて、少しでもスポーツや世の中全体に関して”いいこと”を言おうとしているのだ。頑張ることで世の中にお礼をしたい、というのが本心なのだろう。ただし、それでも日本語には敬語のルールがある。「感動してもらえるような(いただけるような)プレーをしたい」と言ってくれれば最高なのだが。
故・古橋広之進さんが、戦後「屋外プールで練習していると、近所の人から、いい若いもんが昼間からなんだと、白い眼で見られたのがつらかった」と話されたのを思い出す。畑でつくったイモしか食べものがなく、ターンの度に屁が出たよ、とも。
クーベルタンは女子の五輪参加を希望していなかったが、ギリシャの歴史がまだ判然とは神話時代と区別できなかった時代から、実は「女子だけの五輪」ゼウスの娘ヘラ女神に捧げるヘラ祭が開かれ、徒競走が行われた。第2回パリ大会からオリンピックに女性も参加するようになったが、実は日本でも、1920年代には日本女子オリンピック大会や国際女子オリンピック大会なども開かれ、逆境の中で女性アスリートもたくましく育ち、育てられてきた。僅差で金メダルを逃した前畑秀子さんを「なぜ負けた」と叱責した政治家もいたが、女子にもスポーツを開放すべしという動きは強かった。1936年ガルミッシュ冬季大会フィギュアには、最年少12歳の小学生稲田悦子さんが出場して26人中10位。男女差別はあったが、まったく無視されていたのではない。
視点を変えると、日本の女子アスリートへの現在の支援は、かなりランクが高いともいえる。事実、女子の五輪での活躍をメダル数などで測ると、日本ではしばしば男子を上回る好成績を残している。ただし、これはパラスポーツにも見かけることだが、国際レベルのアスリートへの支援は厚いが、一般市民、「普通の女性」へのスポーツ支援は、以前未熟である。
市民スポーツの現状
大学のゼミで一般市民のスポーツ度の実態調査をした。「あなたはスポーツしてますか」に対してはせいぜい20%。特に女性が低かった。一方で国や地方自治体は「日本人の50%近くが日常的にスポーツや健康活動をしている」という結果を押し出している。「スポーツしてますか」ではなく「週に一度以上、散歩などをしていますか」という設問だから、当然イエスの割合が多くわけだ。むろnインチキではないが、数字合わせの感が強い。
ある自治体の会合で「半数近くがスポーツをしている」を既成事実として「わが町」のパンフレットを作成しようとした。そこで「ではこの会合出席者で、スポーツしている人は?」と問いかけたら、イエスは1割未満だった。スポーツ関係者と役所の職員の会合でこのありさまだ。これが実態だろう。一般市民に、もっとスポーツの場や機会を積極的に提供しようとする自治体は少ないが、その推進によって将来の医療費の軽減という大きなプラスが得られることに、注目すべきだろう。
現実を直視することは、実はインナーゲームの基本でもあり、スポーツでも人間でも社会でも、ごまかしのない字数値が提示されれば、修正改良は自ずと始まっていく。
海外では、一部のトップ選手を除いて、社会人選手がサポートを求めて自ら企業を訪ね歩くのも例外ではないし、大学での女子のスポーツ活動支援が大幅に改善された米国でも、社会人レベルでは困難が続く。サッカーやフットボール、バスケットボールの女子プロリーグは興行経営がむつかしく、所属選手が自ら入場券を売り歩くことは珍しくない。豪州でも女子サッカーの代表が合宿費用捻出のためにチームごとヌードカレンダーを売り出した。勝利後、シャツを脱いで、メーカーが売り出すスポーツブラ姿になった米国代表もあった。
日本でも、新聞記者としても働きながらア尻幅跳びや100mの世界最高記録を出して活躍した人見絹江さんは有名だ。自分だけでなく、後輩の海外遠征のための寄付事情を推進するなど、「それならそれで」という、逆風に抵抗する覚悟があった。パワハラを受けて禁じられても、同じ種目の男女が恋愛結婚した例も多い。64年東京五輪を前に、体操の池田敬子さんは乳呑児のおむつを替えながら強化合宿をリード、好成績を挙げた逸話も懐かしい。
タイトルナインと読む。米国では、1972年の米国の“男女機会均等法”が大学スポーツにも導入され、(入学者数の割合に応じて)男女のスポーツ部への支援(奨学金や活動費、監督給与など)を均等にしなければならないことになった。このため、大学側は急遽女子スポーツ選手(部活動)を増やさなければならなくなり、陸上やサッカー選手が急増。運用が厳しいため、やむを得ず男子の重量挙げなどが廃部という例も出た、というのが大まかなところである。経験を積んだ男性のプロ指導者(男性)への手当が可能になったため、現在は女性指導者が逆に減っているというが、たとえ“副作用”があっても、このような「強制的な」措置こそ必要で、なくしては根本的改善はむつかしい。政治や企業でも同じである。
そのまま、でなくとも、日本でも導入の検討がどうしても必要だ。ただ、女性スポーツ支援の指導者やジャーナリスト、元代表選手らからは、“訴え”や“発言”、“呼ばれたら何でも手伝います”といったアピールは盛んだが、実態調査やタイトル\導入の活動を含め、主体的に自ら地道な行動を起こす人はまだ少ない。経験からの発想ではなく、視野を広げた、「将来の」五輪や社会、スポーツへの本質に対する動きが望まれる。
”プロ“アスリートって
1974年に、オリンピックではプロアマの表現をなくし、すべてアスリートで統一した。日本はその後も長い間“アマチュア規定”とその概念が残り、選手の金銭の授受や宣伝活動、出演などを規制していた。競技団体にもよるが、現在は原則的には撤廃されている。したがって、逆に「私はプロです」などと名乗る必要はない。仕立てられた「プロ転向」発表会などをしても、然るべき時に然るべき力を発揮出来無ければ、「プロである以上」ファンの目は厳しくなる。気の毒だ。
ただでコーチする人もいれば、それを職業にする人もいる。主たる収入源はバイトでも、肩書としてプロを名乗るアスリートもいる。プロという文字で、何か箔をつけようとすると、そのスポーツや自らを、あるいはもり立てようとした番組を、かえってマイナーな存在に印象付けることもあるのではないか。
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アウトドア五輪へ
オリンピックは常にテレビ放送技術の発展と深く関係してきた。今後はどうなるか。現在の五輪のほとんどは、時間が決まって、撮影しやすい種目に限定されている。条件にはまらなければ、競技の側が運営や規則を変えて迎合している。それでも、ドローンという新しい機器で、競技の幅は大きく広がった。また、16kなどの映像は、「迫力」よりも「奥行」に特徴があり、櫃線的に大自然を舞台とするトレランなどの「アウトドアの競技」が、大きなテーマとなるのではないだろうか。アウトドア五輪がスピンアウトしてもおかしくない
山を走る長距離レース、トレランといえば。マラトンの美談伝説で補足することがある。
(つづく)