202305

 

解説:インナーゲーム

  「スポーツの集中力」        

本能のパワーを出し切ろう

 

ENJOY>

スポーツで最も大切なことは何でしょうか。
 答えは簡単です、
 スポーツをすることです。
 ただし、ただスポーツするだけでは十分ではありません。
 夢中になって、思いっきりスポーツすることです。
 古い言い方をすれば、「我を忘れて」今やっているスポーツに、一心不乱にのめり込むことです。
 夢中になって、どんどん夢中になっていくと、もう何も考えず、ただ体が勝手にプレーするような感じになることがあります。
 プロのテニス選手はそんな時の状態を「ゾーン(超越した領域)」などと表現します。勝つとか負けるとかをも超越して、ただひたすら自分の内側からわき出てくる本能のままに、最高のプレーをしている時です。
 そういう風に「夢中になる」ことは、何ものにも代えがたい悦びではないでしょうか。
 何十年も前、一人で英国ウエールズ地方にラグビー留学した人がいました。日本でもラグビーが人気でしたが、海外のチームには全く歯が立たない時代でした。彼はラグビーの本場ウエールズのチームに入り、試合に出させてもらいました。一所懸命にったかったあと、チームは惜しいところで負けました。皆、さぞ悔しがっているだろうと思いながらロッカールームに戻ってみて、驚いたそうです。

 全員が大騒ぎして、笑顔で互いの肩を叩きながら「良くやった」「面白かった」と大騒ぎをしていたのです。まるで勝ったみたいに。そして彼の周りに皆がよってきて、口々に「DID YOU ENJOY?」と言ったそうです。「お前、エンジョイしたか」。イエスと答えると、ビールを頭からかけられて、ワイルドな祝福を受けたそうです。

 エンジョイ。つまり、夢中になって何かすることの悦びです。
 ただ楽しいとかうれしいというのとは少しニュアンスが異なります。
 エンジョイというのは、何かをやりきっていることの悦びを表しているのです。
 スポーツの重要な柱が、このエンジョイではないでしょうか。
 つまり、夢中になることです。
 勝てばうれしい。家族や友人も喜んでくれる。有名になるかもしれない。けれどそれは「スポーツ」そのものの悦びではありません。
 試合の後に感じたり、自分の外側の世界から届いてくるものです。もしそれが一番重要だとしたら、スポーツは「終わった後」のためにすることになります。英国ウエールズのラグビー選手達は違います。終わった後ではなく、やっている最中、夢中になって闘っている瞬間の悦び――エンジョイ――を大切にしていたのです。

 

<五輪精神>

 スポーツに対するこうした姿勢を、「ラグビー精神」(ノーサイド精神)と呼ばれることがありますが、実はオリンピックも、この精神を原点としていることがあまり知られていません。

 古代にあったオリンピックを復活させて、現在の形を創始したのが、フランスのピエール・ド・クーベルタンという人でした。どこかで聞いたことがあるはずです。よく、オリンピックの父、と呼ばれています。

 この人は実は体があまり丈夫ではなく、また当時のフランスではスポーツがあまり盛んではありませんでした。そこで英国に留学したのですが、そこで、英国の大学生たちが自分たちでルールを作り、自分たちで審判をしながら(セルフジャッジ)スポーツを思い切り楽しんでいるのを見て、「ああ、青年はこうでなくてはいけない」と感動したといわれています。

 特にラグビーには深い関心を持ち、自分でもプレーし、その精神、つまり夢中になってプレーするエンジョイ精神を体験して、「世界の若者にもっとスポーツを」と、ここから彼のオリンピック運動の復活活動が始まったのです。

 

 事実、クーベルタンの残した有名な言葉に、その精神の原点が顕れています。

 日本でも有名な「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉です。

 これだけを聞くと、いかにも「気楽にやればいいんだ」という風に受け取られがちですが、本当はこの後に「人生でも、みなが必死になって生きていると同じように、スポーツも、無我夢中になって闘い合うことそのものが大切なのだ。何を得たかでは無いのだ」という言葉が続いていたのです。この後半は、日本では紹介されていないので、しばしば「負けてもいいから気楽に」と誤解されてきましたが、クーベルタンは英国の大学生たちが思いっきり、それこそ無我夢中になって競技しているその姿こそ、スポーツの本質だと感じていたのです。同じ「負けてもいいけど」ですが、実は正反対の意味だったのです。気楽に、ではなく、思いっきり、なんですね。

 そういえば、1896年の第一回オリンピックでは、優勝者にはオリーブの冠が与えられただけで、メダルも賞金もありませんでした。ともに戦った全員が讃えられたのです。

 

 こうしてみると、スポーツの象徴であるオリンピックの根本精神もまた、その奥底にある原点の精神がエンジョイ、つまり夢中になってスポーツすることになる、ということが分かってきます。

 だから、スポーツの核心部は、スポーツをすることそのものでであり、しかも「夢中になって」することだと、いうわけです。

 

<達成感? ×>

でも、ここでコーチ達ですらよく間違えるのですが、スポーツというのは試合だけではありません。スポーツをしない人には分からないかもしれませんが、一年の365日、時間にして8760時間、分にして525600分、あるいは31536000秒のうち、実際に試合で出るのはどのぐらいでしょうか。たとえば陸上100mの選手が、年間でレースに出るのは、大小合わせてもせいぜい10大会。リレーは別としても、予選を含めて20レースぐらいです。10秒00で走るとして、レースで走るのはせいぜい200秒。あっという間です。残りの長い長い時間を、スプリンターたちはつらい、楽しくも無い練習で明け暮れるのです。

 もし試合がその人のスポーツの特別な時間で、後はその準備、ということになると、なんと無駄な人生でしょうか。

 でも、エンジョイ精神は違うのです。日々の練習の中に、夢中になる瞬間を見つけて、思い切り自分をぶつけていこう! という姿勢です。

 理屈で表現するのは難しいかもしれませんが、スポーツをやっている人自身、「くだらない」と思えるような練習、たとえば腕立て40回、スクワット40回、腕立て40回、これを3セット! などという決まり切ったトレーニングの最中にも、ふと「夢中になっている」自分を、自分で感じることがきっとあるはずです。つらい練習です。どう見ても面白くない。愉快でもない。なのに、ふと気がつくとそこにのめり込んでいて、苦しさ、痛さと懸命になって、時には「死に物狂いで」やるべき事に挑戦している自分を見つけることがあるのではないでしょうか。

 それがエンジョイです。

もちろん、やりきった後、それが苦しければ苦しいほど、「おい、やったぜ」という満足感が押し寄せてくるはずです。でも、その満足感――よく「達成感」といわれますが――よりも、本当は無我夢中で汗を垂らしている一瞬一瞬の方が大切なのです。無我夢中になって「実際にスポーツしている」のは、その瞬間の自分自身であって、終わってからの心の満足感ではないのです。

 オリンピックの代表選手などが、ときどき「結果を考えずに、ここまでやってきたことを全部出し切りたい」などと言うことがありますが、スポーツの核心部をよく理解した言葉です。

 エンジョイの核心部は、実は「ああ愉しかった」という終わってからの充実感ではなく、やっている瞬間にあることが分かります。そして、夢中になればなるほど、皮肉なことにその瞬間は自覚がありません。なぜなら、「無我夢中」ですから、その究極の瞬間は何も考えていない、何も感じていないはずです。それでいいのです。

 人は、集中力が最も高まったときに、その人が持つ才能の全てを出し切ると言われています。

 

<集中力>

 集中力、という言葉をよく聞くでしょう。

 「よそ見しないで集中しろ」「ラスト1分、集中だ!」「集中して勉強しろ」。

 つまり、心をよそに向けないで、今やるべき事に絞りきれ、ということです。

 ものを感じとり、意識する作業を、光にたとえてみましょう。 

 自分が光を投げかける、いわば太陽、もう少し身近な例で言えば、電灯のようなものだとしましょう。

 普通は、光の輪を大きく広げて、自分の周りをくまなく照らします。

 特に何かに集中してはいないわけです。

 しかし、何かに興味を持ったり、気にかかったりすると、光は自然にそこに集まって、輪も小さくなっていきます。輪が小さくなると同時に、その分、そこに当たる光のエネルギーは強くなっていきます。これが、心を集中させるという作業なのです。

 これがもっと進むと、どうなるでしょう。

 それこそ「一心不乱」に、体も心も自分の全てのエネルギーがその一点に集まります。

 すごいエネルギーが、それこそ集中するわけです。そこ以外に部分には、光を当てません、光が届きません。つまり、その一点以外のことは、もう考えていない、見てもいないわけです。

 これが、何かに集中している時の、自分自身の姿なのです。

 エネルギーのことを別の例で考えてみましょう。

 水道につないだホースから、水を出します。

 何もしなければ、水はホースからジャバジャバとこぼれて、だらしなく下に落ちるでしょう。しかしホースの先を指で少し握ります。すると、水はいくつかの筋となって、少し遠くに飛び始めます。ちょうど、何かに集中しようとしても、あれこれ他のことや、「負けたらどうしよう」「友達に馬鹿にされるかな」などと、余計な考えが出てくる時のようです。水はまだバラバラで、まとまりません。

けれど、もっと握って、出口を細くしてやると、水は一つの方向にまとまって、しかもすばらしい勢いで飛び始めます。さらに絞ると、驚くほど遠くまで飛んでいきますね。

 これが集中力のメカニズムです。

 

 水がどこまで飛ぶかは、水道の圧力と関係があります。

 つまり、自分のパワーですね。

 細く絞れば絞るほど、集中すればするほど、水は遠くまで飛び、自分のパワーを最大限に発揮できるわけです。

 集中すると言うことは、自分が持っている能力を最大限に外に引き出してやることとなのです。

 いくら能力が高くても、パワーがあっても、集中できない人は、それを十分に引き出すことが出来ません。一方、体も小さくてまだあまり経験が無くても、集中する能力が高い人は、内側にあるものを全て出し切り、結果的に大きな相手に勝つ可能性も十分あるわけです。サッカーでも水泳でも、いろいろなスポーツで、こうした逆転劇を見てきたはずです。

 練習も同じです。同じように、集中力が大切です。

 ただノルマをこなして「ああ、やったぜ」と終わってから達成感を感じるのと、動作一つ一つに集中してこなしたのとでは、全く意味合いが異なります。効果が異なります。たとえ全く同じメニューでも、集中して練習した方が、間違いなく効率は上がりますね。

勉強にたとえましょう、記憶力が同じ知能指数の人がいたとしましょう。英単語を覚えるときに、集中して取り組んだ人と、「まあまあ」と気楽に取り組んだ人とでは、大きな差が出るのが当たり前ですね。それと同じです。

ちなみに、音楽を聴きながらでは集中したことにならない、とは言い切れません。音楽を聴くことで、それ以外のことをシャットアウト出来るとしたら、ある意味で学習に集中する準備は整ったと言えるでしょう。問題はそこから先で、いつまでも音楽と学習と両方に意識が分散し続けるのか、いつの間にか音楽を意識の外に置き初めて、学習に夢中の状態になれるのか、です。

 

<火事場の馬鹿力>

ここまで、「その人の能力」という言葉を使ってきましたが、これは外側からは説明できないものなのです。つまり、目に見える部分だけでなく、目に見えない、たとえコーチでも自分でも分からない部分と、その両方が一緒になっているものなのです。

たとえばサッカーのシュート率、浮き球の回数、陸上競技の50mのタイム、テニスのうまさ、体操のしなやかさ。数値であれ、数値以外の技術レベルであれ、選手のそのときの実力は否応なしに結果として現れてしまいます。その時の実力、といっていいでしょう。

 けれど、ではその人の能力が、外に出てきた実力の値と同じかというと、これは一緒に出来ません。その人が、別の条件で、別のやり方で、もし非常に調子が良ければ、いったい何をしでかすか、誰にも分からないのです。従って、いつも練習や試合で見せている実力と、その人が内側にまだ隠し持っている能力がイコールではないことを、あらゆるスポーツ選手は心得ておくべきでしょう。

 持っている能力を最大限に発揮する脳力が、集中力です。集中することによって、内側の能力がお見切り外に飛び出してくる時には爆発的なエネルギーで飛び出してくるものなのです。

だから、能力を高めると同時に、それを活かすために、集中する能力、言い換えれば「集中能力」を高め、もっと自分を活用する努力が、大切だというわけです。

自分の持っている能力は、自分ではまだ分かりません。

人間は、決してそれを見たり、予測したりすることは出来ないのです。

 では、どこまでその能力は伸びるのでしょうか。やはり限界はあるのでしょうか。

 こういう話を聞いたことがありますか?

 米国の話です。車が事故で転倒し、中に子どもが閉じ込められました。ガソリンに引火し、燃え始めたのです。それを見ていた母親が、周りの人が留めるのも聞かずに車に走りより、自分がやけどをするのもかまわずに車にとりついて、えいやとばかりにそれを引き起こしてしまったのです。車の重量は約2トン。てこの原理を計算に入れても、約1トンを持ち上げるパワーが必要だったはずですが、普通の体格をして、特にスポーツ経験も無いのに、このお母さんは一気に車をひっくり返して、我が子を救ったのです。

 同じような話がたくさんあります。

 俗に「火事場の馬鹿力」などと呼ばれています。

 常識では絶対に考えられないような力を「いざという時」に発揮することが、人間にはよくことなのです。

 「神様のおかげだ」「奇蹟だ」と騒がれますが、重要なことは、ごく普通の人も、時と場合によってはとんでもない能力を発揮する、つまりそういう能力を持っているということなのです。その人が特別な存在ではありません。変な言い方ですが、自分自身だって、もういう場面になったら、自分では考えもしないような能力を発揮するかもしれないのです。

 この、内側に秘められた、限界のない能力の持ち主を、「本能」と呼びます。

 何かを考えて行動したのではなく、全く無意識に何かをしたとき、「本能的に動いていた」などという言い方をよくしますが、その本能です。

 

<本能の能力>

その本能というのは、自分の肉体と、それを動かす神経や能力のメカニズムの集合体です。筋肉だけでなく、それを動かす脳の働きなど、「考える」こと以外の、すべてです。

 こうしよう、あそこを攻めようと考えたる思考や、くよくよ悩んだり「やったやった」と喜ぶ感情は、本能ではありません。本能は、全く無意識に動き、働く部分です。

 簡単に言えば、頭で考えることを除いた、活動分とみていいでしょう。筋肉だけで無く、脳で(無意識に)計算し、反応するのも、本能です。だから、ここでいう「本能」は、筋肉などの運動能力部分だけでなく、人間が脳の内側に持っている、最高級のコンピューターもあれば、それを伝達する神経のネットワークも含まれているのです。

 その本能が、何かのきっかけ、たとえば「我が子を救わねば!」といった危機がきっかけで、特にとんでもないパフォーマンスを発揮することがあるわけです。体重50kgの女性が、2トンの車を持ち上げてしまうのです。

 信じられない奇蹟だと思うでしょうが、これは現実に起きたことです。だれにでも起きる可能性があることなのです。

 本能の能力の限界点は、誰にもわかりません。

 けれど、本能の力を、自分の内側からより多き引き出し、それを活用することは、誰にでも出来ることです。

 どうすれば?

 そう。すでにお話ししたとおり、本能の能力を引き出す「魔法の力」が、集中力なのです。集中力がぐんぐんと高まっていくと、一点に能力の発揮力が集まり、ついには自分でも知らなかったような能力が、内側から飛び出してくるわけです。

 一方、いくらパワーがあり、技術が優れていても、集中できなければエネルギーが分散し――どぼどぼと蛇口からこぼれ落ちる水道の水のように――納得の行くパフォーマンスは発揮できません。よく、試合であがる、とか、勝負弱い、といった現象を見かけますが、それは集中力が分散してしまった結果ということがわかります。余計なこと(雑念と呼びましょう)に気をとられて、「夢中になる」ことが出来ない現象なんですね。ENJOY状態になれないためです。

 ということは、集中力を発揮して、自分が本来内側に持っている能力を最大限に発揮するためには、「余計なことに気を散らさない」が条件になります。

 公式を造ってみましょう

 

 集中力の公式;

         発揮するパフォーマンス=本来の能力―雑念

 

 ここでもう一度確認しましょう。

 本能の能力はもともと無限で、それがどのぐらいすごいか高いかは、自分でも分からないということです。それは、日々の筋トレや走り込み、繰り返しの技術練習、目や耳を使った訓練など、あらゆる努力に比例して高まるだけでなく、さらに大きな可能性を広げていきます。内側の能力の相互のネットワークで、倍々と高まっていきます。それを最も有効に外側に発揮するツール(道具)が、集中力です。 

 だから、スポーツにとって最も大切なことは、集中のキーワード、夢中になってENJOYすることだというわけです。

 

<誰が邪魔を?>

誰だって、もっと強くなりたい、速くなりたい、うまく成りたいと思っているでしょう。

 ところが、現実は厳しいですよね。なかなか、思った通りに行かない。練習したのに、本番で失敗する。こうしようと思うのに、体がその用に動いてくれない。

 がっかりするというより、自分自身に腹を立てることもありますね。

 人間だから、そういうことがあるのは当然です。

 でも、なぜうまくいかないのか。

 原因の半分は、筋力や持久力が足りなかったり、知識や経験が不足して戦術的に未熟だったりという、いわば物理的な要因が考えられます。それは練習や筋トレ、経験の積み重ねなどによって克服していくべきことでしょう。

 しかし、失敗や敗戦、うまく出来ない事には、もう半分の理由があるはずです。

 自分で自分自身の邪魔をしている場合です。

 「そんな馬鹿な」と思うでしょうが、これまでに述べてきた、本能の能力発揮のメカニズムを、もう一度詳しく見てみましょう。

 大人の人がゴルフ練習場で、一所懸命に汗を流しているのを見たことはありませんか?

 これでもか、これでもかと、失礼な言い方ですが、ムキになってボールを打っている人がたくさんいます。

 ゴルフのスイングは、ただ力があればいいというものでは無く、ゴルフクラブのヘッド(先端)を正確な軌道で振らなければなりません。縦にまっすぐ振るとか、水平にまっすぐ振るのなら、そう難しくはありませんが、どのクラブでも、あくまで斜めにスイングしなければならない点が、まず根本的に難しい。斜めの軌道から、前方にまっすぐにボールを飛ばすのは、物理学的にも実は無理があると言って良いでしょう。

 そのスイング軌道の中で、ボールを正確に飛ばすのに最も適した1点があるはずです。そこで確実にボールを捉えなくては成りません。

 これはテニスのサーブや、卓球のサーブ、あるいは陸上競技のハイジャンプのバーを超える点、といった他のスポーツに共通する、微妙な世界です。

 それをうまくやるには、もちろん、そのための準備動作、ゴルフでいえば、クラブを右後ろの上方へ持っていく「テークバック」と、そこから振り下ろしてくる「ダウンスイング」が正確でなければなりません。でも、普通の大人の人は、若い頃よりも体が硬くなっていることもあって、なかなか、理屈通りにはステークバックが十分には出来ないし、ダウンスイングも、本来の軌道に沿って振り下ろすことが出来ないのです。

 それでも、必死で、「レッスン書に書いてあった通りに」とか、「あのプロのスイングのイメージで」と、100%理想的なスイングを思い浮かべて、これでもか、これでもか、と、、

 そういうゴルフおじさんの「心の中」を覗いてみましょう。

 「いいか、テークバックでもっと力を抜いて、でも肘はまっすぐに、だぞ。それっ! あ、またダメだ。何度言ったら分かるんだ」。

 もしかしたら、テニスやサッカーをやっている君たちも、自分自身に対して、ののしったり、叱ったりすることがあるかもしれません。「何やっているんだ、お前!」と。

 残念ながら、自分自身、つまり本能には、言葉は通じないのです。筋肉細胞は、脳との共同作業で動きますが、「こうやれ」とか「ああやれ」という言葉を理解するメカニズムにはなっていないのです。  

 

2人の自分>

ここで、面白いことに気がつきませんか?

 自分の中に、二人の自分がいるんです。

 一人は、「こうやれ」「こうするんだ」と、自分の体に指示を出し、命令する自分。もう一人は、決して言い返したり、別の意見を言ったりはせず、常に言われたことを聞くだけです。ただし、本当に納得しているかは、別の話です。前に言いましたね。筋肉には言葉は通じないのだ、と。

 米国のガルウエイという人が「インナーゲーム」という本を書いたのは、1970年代のことです。理論書ではありませんが、まだスポーツ心理学という分野が確立だれていなかった時代に、「集中力」について、実例をあげながら分かりやすく述べて、世界のスポーツ界に衝撃を与えました。実は私はそのシリーズの日本語訳をずっと担当してきました。

 その「インナーゲーム」でも、この2人の自分について、詳しく述べられていました。

 私はそのシリーズでは、2人の自分それぞれに、「自分」と「自身」という訳語をつけて紹介しました。ここでも同じように、命令する側、命令を受ける側を、それぞれ自分と自身と名付けて、考えてみることにしましょう。

 自分と自身。

 ここでお断りしておきますが、「インナーゲーム」だけが、自分の中に2人がいると主張しているわけではありません。

 今はなくなりましたが、プロ野球に「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治という人がいました。現役時代も文句なしの最高峰の打者でしたが、引退後は長嶋茂雄さんや王貞治さんが活躍した、無敵のジャイアンツを率いた名指導者として活躍し、大きな尊敬を集めた人です。

 その川上さんにお会いしたとき、こういう話を聞いたのです。

 「人間には、欲というものがある。プラスになることもあれが、使い方を間違えるとマイナスになることも多い。自分を戒めながら、そのエネルギーを活かすことが大切だ。つまり、自分で自分自身を厳しく導かねばならない。以前、岐阜の禅寺で、1人の人間には、実は2人が共存している、ということをお聖人様から聞いた。お遍路さんが傘などに“同行二人”と書いて歩くのを見たことがあるだろうが、これにはそういう意味があるんだ。つまり、人生は、いつも自分と、自分自身との二人連れだ、と」

 お遍路さんの“同行二人”は、「一人では無い。弘法大師と一緒なのだ」という意味だとされています。だれにも分かりやすい説明です。でもその奥に、川上さんが禅師から聞いた、自分と自身、自分の中に2人の自分がいるという考え方があるのですね。

 ちなみに、ガルウエイという人は、東洋哲学をハーバード大学で研究した人で、日本の禅の考え方もよく知っています。川上さんもただ禅寺をお参りして話を聞いてきたのではなく、禅寺にこもって厳しい修行を経験した人です。インナーゲームの考え方は、決して米国からの輸入品では無く、実は日本人の伝統的な考え方の中に、すでに存在していたものかもしれません。

 

<心頭滅却>

心頭滅却すれば火もまた涼し、というのは中国(唐)の杜筍鶴(とじゅんかく)という人の詩が原点です。最近の教科書には載っていないかもしれませんが、むしろアニメなどで接したことがあるかもしれません。

欲を捨て、真っさらな心になれば、たとえ火の中に座っても暑さを感じなくなる、という意味ですサウナなどで「その気になって」真似をして、脚を座禅のように組んで、我慢比べをしている人もよく見かけますが、これは滑稽ですね。そういうつまらぬ見栄を張ること自体が、心頭滅却していない一番の証拠なのです。

そういう心の働きを、自我と呼びます。

学問的にはさまざまな説がありますが、ここでは、見栄を張ったり、クヨクヨ考えたり、俺様はなどと威張ってみたり、そう、自分自身に命令したりする、感情や思考の作業を自我と呼んでおきましょう。つまらぬ事にこだわって諍いをするのを「我を張る」などと言いますが、その自我です。

心頭滅却の状態は、前に紹介した「火事場の馬鹿力」とよく似ています。同じ事を指していると考えて良いでしょう。

その自我を、ここでは「自分自身の」自分、と呼ぶ。そして人間から自我を除いた残りの部分を「本能」と呼ぶことにしたわけです。

客観的にみると、自我、即ち自分は、実体がありません。

各個人の頭の中でうごめく感情、知恵、思考は、「もの(物)」ではありません。あくまでも各個人の頭の中の、いわばひとそれぞれの宇宙のようなものです。

一方、本能、即ち自分自身の自身は、骨、筋肉、目、鼻といった実体を持ちます。

そして、本能には神経のネットワークがあります。目では見えませんが、音を聞く(聴覚)、臭いをかぐ(嗅覚)などがありますね。自分の命令で、たとえば「歩こう」という意思によって歩くことも出来ますが、自分の頭からの命令を受けなくても、自身内部のネットワークで、何かに反応して動くことも出来ます。

 陸上競技の100mのスタートを例に考えてみましょうか。

 「用意、ドン」で飛び出そうとするとき、慣れないと、どうしても頭で「いいか、音が鳴ったらすぐ飛び出すのだぞ」と、自身に命令してしまいます。そして、頭で、まず音を聞き、それを脚に伝えようと、必死に待ち構えます。

けれど、高校生や大学生になると、もう頭では考えません。なぜなら、「ドン」と鳴ったら、自然に脚や腕が反応して飛び出していくことを知っているからです。つまり、「ほら、ドンが聞こえた、足で蹴れ、膝で体を押せ、ダッシュするんだ」などと考える必要は無いし、考えていたら、かえって遅くなります。いわゆる「力み」ですね。ここはすべてを本能の反射運動に任せているわけです。「自分が自身の邪魔をしないように」わざと自分の活動を停止させているといってよいでしょう。

選手達は、一日何十回、時には何百回も、スタートの練習をすることがあります。もちろん、スタートのテクニックも反復練習しますが、その多くは、「いかに自分を捨てて、自身に任せきるか」つまり本能に任せ、本能の能力を100%出させるかという、集中力の練習に費やしているのです。

 

<“自分”の役割>

何だよ、何も考えない方がいいなら、自分って何だよ。

よし、ヤルゾ! 絶対に勝つんだ、という強い思いも邪魔なわけ?

本やネットで技術の研究をしたりするのも余計なことなの?

皆さんの中には、そう思って、口をとがらせる人がいるかもしれません。

偉い! まず、そうやって、自分や自身、集中力について興味を持ち、一緒に考えていること自体、すばらしいことです。実はここまでの説明だけでは納得できないのは当然で、「では自分って何だ」については説明不足だからです。

自分は、自身にフルに能力を発揮させるために自身を導き、さまざまな努力をする部分です。へんな話ですが、もし自分がなくて、自身、つまり本能だけだったら、人間はどうなっていたでしょう。他の動物と同じように、食べるために食べ、人類もまた食べられる存在のままだったことでしょう。

しかし人間には知恵がありました。樹上生活から草原に降りた時、ライオンを初めとして食肉獣の餌食になりかけました。走る能力などありません、木の上にいたのですから。けれど、知恵と社会性で、最も弱い立場からなんとか脱出し、みなで闘い、逆に狩りをして他の動物を食べる存在になってきたのです。それには本能の力も必要でしたが、逆境にチャレンジして生き延びようという強い意志とが必要でした。

ちょうど、スポ―ツをする者が、なんとか強くなりたい、速くなりたい、うまくなりたいという強い気持ちを持つのに似ていました。

その目に見えない炎は、実は内側の本能の火なのですが、その内側の火に気づき、その火をさらに燃やそうと努力する気持、思考、感情が、自分自身の自分の役割なのです。

車にたとえましょう。

新しい時代の車は、目に人や物の障害物が洗われると、自動的にブレーキがかかる装置が付いています。高速道路で、同じ車線を走っていく自動操縦装置も付いています。駐車をする時も、児童で隣の車の位置を判断して、美事に滑り込んでいくことが出来ます。今の乗用車の変速ギアはほとんどがオートマチックです。車速とエンジン出力、アクセルの踏み具合を、自主的に組み合わせて、最適なギアを自分で選択してくれます。

まるで、人間の本能部分のような完成度ですが、だからといって、「どこへ行く」ことを自分で判断するわけではありません。これから何をする、という意思決定は、どんなにAI化が進んでも、やっぱり人間、つまり自分自身の“自分”が行うことです。

自身という車のドライバーは、あくまで自分というわけです。

ただ、問題は自分がどこまで自身を信用出来るかと言うことなのですね。

自分の役割、自身の役割。

この見極めが、集中力発揮の重要な鍵にもなっていくのです。

 

<自身の自然成長力>

(ここでは一般論としての例話を行います。障害をお持ちの方への配慮が欠けることになりますが、主旨をご理解のうえ、ご容赦いただければ幸いです)

みなさんは本を読むことも出来るし、話すことも出来ます。

それは、どうやって身についたのでしょうか。 

幼稚園で習った、学校で勉強させられた。

でも、そもそも歩くことは、どうやって覚えましたか? 話すことの前に、不愉快なことがあると、そのへんをごろごろ転がって、泣いたりしませんでしたか? え? まだやってる? それはけっこうなことです(笑い)が、あくまでわざと、ですよね。やろうと考えて、やってますよね

ここで言っているのは、考える、という作業をまだしない頃に、どうやって歩き、話すことを人は身につけるのか、ということです。

 それが、本能の能力です。赤ちゃんが立ち上がり、歩き始めるとき、「さあ、右足を出して。バランスをとって。今度は左足を前」などと考えて行動したでしょうか。いいえ、何も考えず、ただいつの間にか体が動き、声を出していたはずです。小さい頃の記憶の中で、自分は歩く努力をしたという経験があるでしょうか。

人は、他の動物と同じように、ごく自然のままに歩き出し、話し始めるのです。

自分自身の自身の部分には、「自然に成長する」という魔法の力が含まれていることに注目しましょう。

自分がいなくても、自身は勝手に歩き、話し、それが上達することができるのです。

もちろん、そこには複雑な工程があります。

動きたい、歩きたいという本能の衝動だけでなく、目で大人の動くのを見て自然にそれを自身の内側に採り入れていく。大人話す声や口の動きを見て学習し、それが出来るようになるとさらに難しいことを覚えたい、まねしたいという衝動に駆られて、加速度的に上手になっていく。そうした一連の行動に、自分自身の自分は含まれていません。「よち、今度は手を叩いて大人を笑わせよう」などと、考えてチョチチョチするのではないわけです。大人とのコミュニケーションも、ごく自然に学習していきます。身につけるというより、身の内側からあふれ出てくる本能の能力を発揮し初めていく、というべきでしょう。幼児を見ていると、本能が自分自身の内側からあふれでて、その本能のままに行動し、成長することに、大きな悦びを感じているのが分かります。目が輝き、何をするにも100%全力で、それこそ無心、無邪気に生活しようとしているのです。1分1秒、彼らはだれにも強制される必要無しに、成長していきます。あなた方は、そうやって成長してきたのです。

 

<邪悪なべき論>

自然に成長する能力は、大人になったら失われるのでしょうか。

結論から言えば、それは誤解です。

人間は、何歳になっても学習する能力に恵まれています。ものごとを修得する能力、といったが分かりやすいかもしれません。

 ところが、賢くなるにつれて、自分自身の“自分”が発達して、自我に目覚めます。反抗期も経験します。すると、何も考えなかった頃よりも、ずっと上手に物事を覚え、やってのけるようになりますが、時にはその自分の考えや感情が、内側で邪魔をすることも出てきます。

 逆上がりや二重跳びを、すんなり出来る子もいれば、「苦手だ」と思うと、もうそれだけで動きがぎごちなくなることがあります。

 見よう見真似という言葉がありますね。人間の本能、つまり自分自身の自身には、目で見て脳にため込んだ情報を、本能的に自身でもやってみようとする能力があります。逆上がりもそうですが、小さな子がサッカーボールを蹴ったり、プラスチックのバットで野球をしたりするのは、もともとの本能部分にはそういう動作が組み込まれていなかったのに、親や友達がやるのを見て、その視覚からの情報が、ごく自然に動作となって再現されているのです。この連絡網に、自分は関係がありません。

 別の言い方をすれば、子ども達は、頭で考えて、「バットをこう握って、こう構えて、こういうグリップで」などと、文字や言葉であれこれ情報を体に伝えているのではないわけです。まさに本能の能力なんです。

 ところが、ここに自分が入り込んで、あれこれ考えて自身にレッスンしたり、見栄を張ろうとしたり、友達より上手にやろうとすると、しばしば、逆に動作にスムーズさがかけるようになることがあります。

 「より速く、より高く、より強く」は、五輪の標語ですが、実は言葉でこうやれと言われなくても、本能の中に、こういう目的意識は組み込まれています。もっと上手にやろうとするのは、誰にでもある内側の意識なのです。でも、「いいか、こうすべきだからこうしろ」という“べき論”を命令されても、前にも学習したように、筋肉に言葉や理論はそのままでは伝わらないのです。

 伝わらないだけでなく、逆に邪魔します。きれいな小川が流れています。その流れにダムを造って、流れをせき止めてしまうのを想像してみましょう。

 「正しいフォーム」という基本があります。とても大切です。でも、これを一コマずつ分解して、「こうすべきである」と押しつけても、自身の本能は受け入れてくれません。動きが不自然になり、うまくいかないことで自分の側が失敗を恐れ、それが苦手意識になったり、力みになったりして、努力がマイナスになってしまうことが多いのです。

 

<静かに見守る>

 では自分はどうしていればいいのでしょう。

 無邪気な子どものように、本能が学習し、上達していくのを、そこから離れた場所で静かに、温かく、また同時に自身の成長能力を信じ切って、黙っていることです。

 無我夢中になっているとき、極端な場合は火事場の馬鹿力を発揮しているようなとき、そこでは自分が活動していないことに気がついたでしょうか。まさに「何も考えない」状態ですね。その状態に、自分自身をもっていく、つまり、自分が不在となるように自分を持っていくのが、自分の仕事になるのです。少し混乱したでしょうか。

 公園でお父さんとキャッチボールをしている子どもを見かけました。お父さんが投げたゆるいゴムボールを捕ろうと両手を突き出すのですが、初めから力んで両手を突きだしてしまうので、いつもはじいてしまいます。一生懸命にやっているのに、うまくいきません。お父さんもだんだん笑顔を忘れて、「ボールをよく見て、こういう格好で」「手をこう動かして」と、正しいフォームになるよう厳しく教え始めます。とうとう子どもは半べそになりました。お母さんが割って入って、お菓子食べましょうと、休ませました。

 その後で、お母さんが、「私もやってみる」と、お父さんと投げ合いました。お母さんは上手ではありません。でも、両手を突き出さず、手をブラブラさせてボールを待って、ボールが来ると、両手をパチンと合わせるようにして、受け止めていました。失敗もしますが、けらけら笑っています。

 それを見たせいでしょうか、坊やは「僕も」と言い出して、今度はお母さんと同じように、「ぶらぶら、パッ」と、実にリラックスした動作でボールをキャッチし始めたのです。

 ボールをキャッチする正しいフォーム、というのがあります。ネットでも、「我が子に教える方法」などが載せられています。でも、そんな面倒をしなくても、実はそんなことをしなくても、ハエや蚊をとるように、ゆるいボールなら目の前に来るの「パチン」とやれば、簡単にとれるのです。パチン、は本能の作業ですから、考えなくても出来ます。その分、神経をボールに集中できます。ゆるいボールをキャッチするために、実はレッスンは無用といっていいでしょう。お母さんがちょっとやってみせれば、後は本能がそのイメージを取り込んで、ごく自然に自身が「キャッチ」してしまうと言っていいでしょう。

 本能の能力を活用するためには、「こうすべきだ」という、外側からの”形”の命令ではなく、自分自身の本能が自然に能力を発揮できる「状態」に、自分と自身を持っていくことが鍵になるわけです。そう、幼い子ども達のような、無心の状態になればいいのです。

 もちろん、自分には忍耐と信頼が必要です。自身が、自然にキャッチボールを修得するまでには、少し時間がかかるかもしれません。でも焦らず、怒らず、自身の本能が能力を発揮するまで、静かに見守ることが大切なのです。

 

<内側の感覚>

かけっこが得意な人もいますが、足を速く回しているのに、どうしても速度があがらない、という人も多いでしょう。

昔は膝を高く上げればいいのだ、というコーチ法が大半でしたが、今は膝の高さでは無く、いかに膝を前に持っていって、体の前で足を回せるか、が鍵だという風に、教え方も変わってきました。

海外の選手の走り方や、体格のよくなった日本人の特性を見直した結果、膝の高さは余り関係ない、「体の前で回転させる」ことを強調すべきだ、というわけです。膝を高く上げると、果的に回転(ピッチ)は早いけれどストライド(歩幅)が伸びなくなる、ゴール前では、前傾して後ろに蹴り続けるフォームになり、速度が落ちてしまう、という考え方です。また、かかとをおしりの下に素早く巻き込んで、かかとがおしりに付くのが正しい走り方だとされましたが、足を上に上げる分、前に出した方がタイムが上がる、とも言われ始めました。

いろいろなコーチ法がありますが、もっとも大切なのは、まず自分で自分自身の走りがどうなっているかを自覚することです。

ビデオや写真があれば、「足が後ろに流れている」ことが分かるかもしれません。本当に速い人は、ゴール前で足を後ろに流さず、前へ前へと出して、体より前で回転しています。だから速度が落ちません。勢いをつけたまま、ゴールの先へ走り続けていきます。足が後ろに流れると、勢いがなくなり、「やっとゴールだ」という感じで走り終わります。

どうしたらいいでしょう。

先輩か先生に頼んで、「足を前で回転させる」走り方を、やって見せてもらいます。細かなことは気にしなくていいのです、ただその感じを自分自身の本能に直接的に「目で」(視覚的に)インプットすることが大切です。全体のイメージを、リズムを、たたき込むのです。同時に、「足を後ろで回す」走り方も見せてもらいましょう。その両方を、本能に伝えておきましょう。前に述べたように、「ここをこうして、あそこを曲げて」などと、言葉で覚えようとしても何にもなりません。筋肉は、本能は、言葉を理解しないからです。

素直な、そう、ちょうど真っ白なキャンバスのような心になって、二つの走りの違いをイメージとして本能に写してしまうのです。

それから、ゆっくりでいいから、自分でもやってみましょう。これが今までの走り。これが、イメージに残っている、「前で回す」走り。さてここが大事な所です。前で回す走りをする時、足は、足の裏は? 腕は? 目線は? どんな感覚でしょうか。

その感覚を、集中してつかまえてみましょう。体の内部のどこでもいい、つま先とか、肘とか、顔の上げ具合とか、なにか一点に集中して、以前の走りとの感覚の差を感じ取るのです。この、体の内側から感じ取る感覚を、“体内感覚”と呼びます。外から見た、あるいは形を想像した“感じ”では無く、実際に、自分が自分の体の内側のある箇所に意識を集中して感じ取る時の感覚です。

体内感覚で「前で回す」感覚を捉えることが出来たら、もうしめたものです。

 

<目を閉じて>

 ああ、前で回すって、こういうことか、というのを体内感覚で本能に理解させました。

 でも、「ようし、これで行くぞ」とばかり、焦ってはいけません。

 誰だって、少し分かりかけたから、なんでもその通りにいつでも出来るわけではありません。それこそ夢中になって走れば、いつのまにか以前の「後ろで回す」走りになってしまうかもしれません。それで当然なのです。その時に「悔しい、なんで思った通りにできないんだろう」と、自分自身の自身を、自分が責めてはいけません。

 それでは、前に話した、ゴルフ練習場の「これでもか」オヤジになってしまいます。

 足を前で回しても、すぐにタイムが上がるとも限りません。それなりの練習と、強い意志が必要になります。みなさん、体験で知ってますよね。努力に近道はないのです。

 大事なことは、「ヤルゾ」「やってみるんだ」という決断をしたら、いちいち結果にこだわらず、やろうとしたこと、この場合は、走りながら自分自身の足がどうなっているかを静かな心で観察し続けることを、継続することです。体内感覚で「ああ、前で回すって、こういうことか」と実感できるようになっても、「よし、コレで行くだぞ」と型の固定を命令してはいけません。日々、感覚は異なります。その日、そのときの体内感覚で自分の走りを、自分自身に、本能に、感じ取らせることが、大事です。

 やっている内に、きっと面白くなってきます。ENJOYです。

 実は、体内感覚をもっと活用するテクニックがあるのです。それは、目を閉じることです。何も見えません、もう体内の感覚だけに集中できますね。でも、目を閉じて走る事はあまりにも危険で、お薦めできません。

 サッカーなら、応用できます。ボールを真っ直ぐに蹴ることは、意外に難しいものです。相手がいるので、多少のずれはお互いに余り気にしません。でも、この基本はとても大事なのです。やってみましょう。相手がいなくても、木や、ゴールポストの片方を狙って、5mか10mぐらいから、真っ直ぐに狙ってキックしてみましょう。「こんなの簡単だよ」と思っても、10発10中とはいかないでしょう。どこかが「いい加減」なのです。

 これを修正する「正確なパスの“目を閉じて”練習法。

 そう、今度は目を閉じて蹴ってみます。当たりましたか? 実は、そんなことはどうでもいいのです。目を閉じて蹴り出した時、ボールがどこに行くかを、自分で声を出して予告するのです。まっすぐに目標に向かったと感じるなら――そう、体内感覚で感じ取るのです。ボール一つ分右に逸れたとおもったら「右1」ボール二つ分ななら「右2」、左なら「左2」。はっきり声を出しましょう。こえを出してから、目を開けて、ボールがどこに行ったかを確認しましょう。大切なのは、当たるかどうかでは無く、体内感覚と結果が一致するかどうかなのです。

 

<自然修正本能>

 目を閉じて、体内感覚に集中して、ボールを蹴った瞬間にどうずれるか、あるいは真っ直ぐに目標に当たるか、これを当てるのです。

 ここで大切なことは? そう、もう分かりますね。静かな心で、自分自身の感覚を採集することですね。

 体内感覚と言っても、いろいろな部分の感覚があります。初めのうちは、何となく全身の神経を漠然と感じ取ろうとしているでしょうが、やがて、どの部分の感覚に意識を集中すれば、ボールの行方をより性格に言い当てられるか、だんだな、分かってきます。もちろん、「蹴り足の足先かな」「蹴らない方の足の、体重をかける位置かな」などと、いくつもの「感覚のターゲット」候補を感じ取り始めるのが普通ですから、それらを順に試してみましょう。試行錯誤といいます。

 教科書では無いので、正解はないのです。人それぞれです。日によって、あるいは試行錯誤の進み具合によって、変わってきて当然です。そうやって、体内感覚を幅広く開発することも、実は重要なプロセズなのです。でも、やっている内に、「僕はここの感覚が鍵だな」「私はここね」と、各自に一番捉えやすい箇所の体内感覚が分かってくるでしょう。

 続けてください。

 その内に、「0」と予測し、声を出して目を開けたら、ちゃんと目標にボールが当たっていた、というケースが増えてきます。でも、この練習法の目的は、違います。大事なのは、あくまでも体内感覚により予測と、その結果が一致するようになるかどうかなのです。

 足を前で回す、という体内感覚の時もそうでしたが、「当てよう」ではなく、「感覚をより正確につかむことが大切です。静かな心で、つまり体内感覚に集中して続けていく内に、本能が自然と「予測0 結果0」になるよう、働いてくれます。本能には、そういう「自然修正」の能力があるのです。え、どういう仕組み? さあ、それは分かりません(笑い)。でも赤ちゃんがだれにも教えられなくても人に歩けるようになっていくのも、実はこの本能の働きなのです。自然発達能力を呼んでもいいかもしれませんね。

 ともかく、やってみてください。

 サッカー部の人だけで無く、分かりやすいやり方ですから、他の人も、トライしてみてください。目を閉じて、体内感覚に集中して、結果では無く「感覚で予測する」ことに集中して、自分自身の本能がどう働いていくのか、確認して欲しいのです。

 このやり方は、あらゆるスポーツに応用できます。

 野球のピッチング、テニスのサーブ。テニスのバックハンドストロークでの「前肩を入れる」。ゴルフオヤジのパットの練習。

 スキーなどで試すときは、危険のないよう、十分な注意と、練習に適した環境が必要ですが、「目を閉じて滑る」練習は、すでに多くのスクールでも採り入れられています。体内感覚の開発に適した練習ですね。

 

<無意識の意識>

 繰り返しますが、大切なのは、あ、また右へ行った、などと自分自身を責めないことです。ここでやろうとしていることは、感情や、頭の判断とか計算をゼロにして、ただ無心に本能を働かせることです。少しでも感情や思考が入ってくると、本能の働きが邪魔されます。邪魔されなければ、本能はどんどん「正確に投げる」能力を発揮し、身につけていきます。

 思い出してください。

 

 集中力の公式;

         発揮するパフォーマンス=本来の能力―雑念

 

自分ではよかれと思っても、考えたり、褒めたり、叱ったりすることは、「集中力による本能活用」では、すべて雑念になるのです。

このことから、「無意識状態」、つまり何も考えていない状態が、本能にとって、自分自身の自身にとって、最高の状態であることが再確認できます。

では、応用問題。

ある少年、仮に眠太郎君としましょう。眠太郎君は、朝、どうしても一回で起きることが出来ません。目覚まし時計が鳴っても、手で音を留めて、また布団おなかに潜り込んでしまうのです。「だって、もう一度暖かい布団の中に入るのが、すっごく気持ちがいいんだもん」。けれど、バスケットボール部の朝練が始まるようになると、この癖が大きな障害になってきました。一度で起きない、お母さんに起こされるまで寝ている癖のために、朝練に間に合わなくなったり、朝ご飯を食べることが出来なくなったりし始めました。

どうやっても、この癖が直りません。自分でも「明日こそは」と思うのですが、いざ朝になると、また「ふにゃふにゃ」と布団の中に潜り込んでしまいます。

「意識的に」直そうとしても、その努力はいつも無に帰してしまいます。

そこで、大学生のお姉さんが、こういう工夫を提案しました。

「お寝坊さん、その癖はそうとしても直らいわよ。いい? こうしないさい。遅刻しそうになっても、どうなってもいいから、黙って、毎朝起きた時刻を記録しなさい。ほら、この壁に評を貼っておくから、毎朝、出かけるときに、布団から出た時刻を書き入れていくのよ。それなら出来るでしょう? それだけでいいのよ」

「え、それだけでいいの? その表を見て、反省とかしなくていいの? 怒られたりしないの?」

「しない。ただ記録するだけよ。あ、また遅刻だ、なんて反省しないこと。何も完会えないで、ただ書き込めばいいの」

こうして、眠太郎君は、毎朝起きた時刻を記入し始めました。時々忘れました。時々、書く時間も無いほど遅く起きて、かえってきてから思い出して記入することもありました。

一ヶ月が経ちました。

全く不思議なことに、初めは7時9分とか、7時18分とか、7時0分にはとても及ばなかったのに、いつの間にか7時2分、7時1分、ついには6時58分などという日も出てきたのです。

手品ではありません。

眠太郎君は、自分自身を責めたり、よい子かどうか点数をつけたりしないで、ただ「何時に起きたか」を、無意識の内に、本能で強く意識し始めたのです。そして、早く起きたときの快感を、自分に強制しせずに、体感し始めたのです。

だれにでも、これが効くとは限りません。

「無意識に」記録をつけること自体、なかなか難しいのです。

 お母さんが、黙って見守ってくれるとも限りません。

 でも、自分自身の自分を黙らせて、自身に「ありのまま」のデータを与えれば、本能が自然に修正してくれることは、いろいろな実験でも証明されています。ボールを真っ直ぐ投げる、足を前で回して走る、なども、同じことなのです。

 

<本能に聞いてみる>

 私の知っているあるサッカー少年は、毎日の練習のあと、必ず「どんな練習をして、どんな感じだったか」と、細くノートに書き続けています。オリンピックに出るような選手は、みなそうしています。

 でも、それと、さっきの眠太郎君の「無意識状態で記録する」のとは、全く別です。

 練習や試合を分析して、明日につなげていくのは、アスリートとして大切、というか、当然の努力です。これは自分自身の、自分の部分の働きですね。知力です。

 ところが、知力だけでは解決できないこともあります。考えれば考えるほど、努力すればするほど、逆に――例えば太ってしまう、などということがよくあります。意識すればするほど、逆に食べたくなってしまうのですね。

 よく聞く話ですが、「食べたものを全部ノートに書いて、その内容を細かく分析しているのに、体重が減らない」。

 それは、いちいち分析しては、自分自身を責めているからです。つまり、雑念が邪魔をして、本能が本来の能力を発揮できなくなっているからです。

 私なら、こうします。

 その日食べたものを、同じようにきちんと書きますが、自分を責めたりはしません。書くときに、もう一度、その食品やお菓子を思い出して、そのイメージを本能に伝えます。こういうもの食べたね、と。

 そして、食事やおやつの前に、「ねえ、私自身の自身君、本当はどんなもの食べたいの?」と、本能が、私自身が、内側から答えを出してくるのを、少し時間をかけて待つのです。初めは、それまでと同じように、チョコレートケーキや、豚肉が真っ先に頭に浮かぶでしょう。でも、10秒か20秒でいいから、「私の自身君、本当は何が欲しいの?」と答えが出てくるまで待ってあげるのです。

 もしかしたら、不思議なことに、「本当はサラダも食べてみたい気がする」とか「今日は甘い物、食べたくないかも」といった、自分でもはっとするような答えが出てくるかもしれません。出来るだけ、その通りにします。誘惑に負けることもあるでしょうが、責めてはいけません。食べたものを、そのまま書いておきましょう。変化は、自然に起きてくるものです。

 これも、だれにでも絶対に有効とは言えません。何事にも近道はないのです。でも、本能には、自分自身には、目標に向かって自然に直っていく能力が潜んでいることだけは、確かです。それを上手に引き出せることもあれば、うまくいかないこともあります。

 うまくいかないこともありますが、「本能に、そっと聞いてみる」実験を継続してみることは、集中力のフル活用に非常にいい経験になるはずです。

 これもまた、体内感覚の応用なのです。

 

<お母さんのために>

 タバコを止められない後輩がいました。とても優秀な人材で、きっと出世するだろうとみられていましたが、あることで恋人にあっさり振られてしまったのです。

 原因はタバコでした。何度か禁煙しようとしては失敗。彼女に「いい加減にしなさいよ、私、タバコの臭い嫌いなの」と叱られていました。

 そこで「今度こそ禁煙する。御願いがあるんだ。禁煙したら、結婚してくれると約束してよ。君のために、絶対にやり通すから」と頼んだのです。それがいけなかった。彼女はこう言いました。「自分のことは自分でやりなさいよ。誰かのために、なんていうのは、弱さの象徴。自分だけの力でやれないのは、マザーコンプレックスよ。甘えっ子ね。あなたの一面を見てしまったわ」。彼女は、二度と会おうとはしませんでした。

 誰々のために、というのは、スポーツでもものすごいパワーを発揮します。

 

苦しくてつらい練習。例えばスクワットを50回5本セット、などと言うときに、4セットまではできても、あと1セットを開始するには勇気がいります。10kmランニングでも、あと500mが、実につらい。そういうとき、「彼女のためだ」とか「被災者のために」「亡くなったおばあちゃんのために」などと考えると、もうひとがんばりする勇気が出てくるのは確かです。オリンピックのメダリストが、「亡くなった親友のために頑張りました」などとテレビでコメントするのを見ると、「おう、僕と同じだ。誰かのために頑張るって、かっこいいんだ」などと思ったりします。

 それは、間違いではありません。

 でも、本当に強い人は、自分の外側の要素、「誰か」を利用しません。

 スポーツは、誰のためでもなく、自分がしたいからしているのです。もちろん、スポーツをするのには、学校で一番になりたい、優勝したい、両親に喜んで欲しい、プロになりたい、皆にすごいと思われたい、有名になりたい、アイツより上に立ちたい、テレビに出たい、といった夢や目標があります。だれかのために、というのも、そうした夢や目標の一つです。尊い目標です。

 ただし、それは自分の外側の要素で、自分自身の活動の内、あくまでも「自分」、つまり頭で考えることです。その自分が、「自身」を導いていく作業です。前にも言ったように、自身の方は、そういうことを考えたり、感じたりはしません。それこそ本能のままに、の本能の部分だからです。

 本能を最大限に活動させるには、雑念を排除することですね。

 すると、スポーツの真っ最中に「ようし、だれそれのために」とか「ママが喜ぶために頑張るぞ」と考えたり、思ったりすることは、すべて雑念になるのです。実際、レースの時にそういうことを考えると、いわゆる「力み」になりませんか?緊張のきっかけいになりませんか? 

 

<外側の要素>

 オリンピックで活躍した選手が、競技の後で「被災者のために頑張りました」などと話すのは、自分が自身に与えた「大きな目標」のことであって、レース中には、そんなことは全体に考えていないのです。それは自分自身の“外側”の要素であって、スポーツをする実体、つまり自分の自身とは直接関係がありません。

 大切なことは、たとえそれが「良いこと」であっても、スポーツに集中する時は、そうした自分の部分の考えや思い、つまり“外側の要素”を追い出すことです。

 火事場の馬鹿力を思い出しましょう。子どもを救おうとしたお母さんは、もちろん子どもを救おうと考え、行動に移りました。でも、思い車を一気に持ち上げるその瞬間は、何も考えていません。まさに無我夢中、ただ本能だけがフルにその能力を発揮したのです。

 選手は、時々嘘をつきます。特にレース直後などは、アドレナリンが体中にみなぎっていて、大変な興奮状態にあります。だから、冷静に自分を分析して、などという状態ではないのです。でも、しばらく経ってから、真実に迫るコメントをすることは、しばしばあります。

 2018年2月の冬季五輪で金銀メダルを獲得したスピードスケートの小平奈緒さんが、3月30日の朝日新聞でこんなことを話しています。

 「スタートラインにたったとき、周囲の出来事や他の選手のタイムに左右されない心の持ちように、気づかされたのです。不安や重圧を背負うのではなく。受け入れられる勇気みたいなものが、みなぎっていた」

 また、「みんなに認められたいと思って生きています」とも、だから彼女も前回ソチ五輪では「結果が出なかったらみんなが離れていく気がして」その欲で、逆に結果が出なかった、とも。

 すばらしい自己分析であり、スポーツ心理学の真髄と言えるでしょう。彼女もすばらしいし、聞き出した榊原一生記者もすごいと思います。

 小平さんは、褒められたいとか、メダルが欲しいとかいった自分の外側の要素をすべて消し去り、のびのびとしたこころを持ちました。自然にそうなったのではなく、努力してそういう境地に至ったのです。

 米国流で言えば「インナーゲーム」。日本流に言えば禅の「無の境地」です。

 そういえば、かつて1990年代のアルベールビル冬季五輪で、女子スピードスケート1500mで銅メダルを獲得した時、橋本聖子さんは長い競技歴を振り返り、「本当を言うと、私故人はメダルなんてどうでもよかった。メダルは両親にあげたい」と、話しました。やりきった者だけが分かる言葉ですが、メダルとか表彰台というのも、選手がとことんやりきり、頂点のさらに奥へ成長したときには、単なる「外側の要素」になるのです。橋本さんは、最後までやりきった自分自身の本音として、メダルすら「外側の要素」に切り離すことが出来たのですね。

 なぜなら、彼女はENJOYの極限を味合うまで、スポーツに打ち込んだのですね。

 

<見極める能力>

 小平さんや橋本さんのような境地には、なかなか到達できません。

 何が自分の外側の要素なのか、それとも内側の要素なのか。これを見極める能力は、集中力を開発していく上で、非情に重要な原動力になります。でも、子どもの頃はそもそもが無邪気で、ある意味で自然な集中力を発揮しやすい状態にあります。「親に喜んでもらいたい」「褒められたい」といった気持をきっかけにしますが、いざ競技が始まるとそんなことはあっさり忘れる能力を、持って生まれた自然な集中力を、一杯に持っているのです。だから、幼児でも天才的な技をやってみせたり、大人顔負けのパフォーマンスを発揮できるのです。

 ところが、成長するに従って自分自身の中の「自分」の比重が大きくなり、次第に感情が邪魔をし始めます。いろいろなことを考えてしまう。自分の外側の要素に気をとられることが必然的に大きくなってしまうのです。

 ハンマー投げのベテラン、室伏広治さんは、2004年のアテネ五輪で金メダルを獲得しました。成田高校の名監督、故滝詔生先生に師事し、懸命に練習しました。すぐに頭角を現し、テレビでも人気者になりました。一時はボブスレーで冬季五輪にも挑戦する話が持ち上がり、大きな話題になったものです。ところが、この話は突然立ち消え、同時に、それまではテレビのバラエティーなどにも出ていたのに、それも一切止めてしまったのです。後で「なぜ?」と聞いたことがあります。

 「いろいろな人に、ハンマー投げというマイナーなスポーツを広めるために、もっといろいろなことをやって、室伏さんが有名になることで、子ども達も興味を持ち、スポーツが広がっていく。単に練習、試合だけのアスリートなんて、これかの時代にそぐわない、といったことを言われたのです。そうかと思ったし、事実、その方が楽しかった。そこでボブスレーにも挑戦したのです。でも、長野で合宿しているとき、ふっと思ったのです。こんなことしていて、いいのだろうか。僕はハンマー投げのアスリートだ。ハンマーのライバル達は冬でも夏でも、黙々と汗を流して、1cmでも遠くへ飛ばそうと努力している。もし、本当にハンマー投げをもっと知って欲しいなら、テレビや新聞で話題になるより、少しでも練習して、ハンマー投げで金メダルをとって、スポーツ新聞の一面に載る方が、よほど効果がある。自分の外側の人たちに騙されるのはやめよう、自分の内側の自分自身は、純粋にハンマー投げをしたいのだ。そういうことに気がついたんです」

 以後、彼は黙々とハンマー投げの練習に打ち込んだ。日本人には絶対無理とも思われたのに、アテネ五輪で本当に優勝したのです。その後も学究的な道に進み、「テレビに出て有名になる」誰にでも心の奥底にある“欲”を抑えています。NHKEテレのアニメに、室伏さんを思わせるキャラクターが出演? していますが、アスリートとしての体験を元にした研究活動を続けています。

 外側の要素か、内側の要素か。それを見極める力。

 自分の“欲”、つまり雑念との直接対決です。とても勇気の要る作業です。でもこれが出来ないと、本当の集中力発揮や、その継続はできません。

 すぐには無理です。特に若い内は、とても難しい作業になります。

 けれど、「いつかは室伏さんのような勇気ある、りんとしたアスリートになりたい」と思い、そこに向かって進んでいこうとすることは、それだけで貴重なことです。それを理解するだけでも、大きな前進と言っていいでしょう。

 

<ふたつの「勝つ」>

 外国の話ですが、ある有名な選手が違反薬物を使っていたことが分かり、選手は引退しました。「あなたのようなすばらしいアスリートが、なぜ?」と聞かれたとき、彼女は正直にこう答えたそうです。

 自分は競技そのものが好きで、思い切りスポーツすることが楽しかった。そして、いい記録を出して有名になって、テレビでも紹介されると、子ども達からも熱い声援を受けるようになった。それがうれしくて、励みになった。一番の生きがいになった。つらい練習も苦にならなくなった。ところが、若い選手達がどんどん追いついてきて、女王の座を脅かされ始めた。マスコミも新人を特集をしたりして、私が中心人物ではなくなり始めた。スポーツだから、いつかは負ける日が来ることは分かっていた。それ自体は怖くなかった。けれど、だんだん有名でなくなり、人気者でなくなってしまうことが、とても怖かった。子ども達の無邪気な声援を受けなくなったらどうしようと、そればかり考えるようになって、ついつい、違反薬物に手を出してしまった。

 勇気ある告白だと思います。負けることは怖くない、でも人気者の座は滑り落ちることが怖かった! 

 彼女は、何を間違えたのでしょうか。

 それは、薬物に手を出したこと以前に、彼女が「なぜスポーツをしているのか」を、見失ったからですね。

 集中力の見方からすると、本来は「もっと速くなりたい」という本能のままに、自分が自身をよりすぐれたアスリートの方向に、一心に向けて、励んでいたはずです。脇目も振らず、無心にENJOYしていたのだと思います。ところが、自分の外側にいろいろな要素が現れてきたとき、それについつい引きずられて、自身を導く方向を間違えてしまったのです。褒められたり、テレビに呼ばれたり、子ども達の無邪気な声援に手を振ったり。「すばらしいアスリート」ではなく「有名人としての私」の方が、いつの間にか心の中で大きな比重を占めてしまったのですね。

 外側の要素に負けた、といってよいでしょう。

 アスリートとしての自分自身の最大の喜びは、本能の能力を思い切り出し切ることにあるはずです。もちろん、レースで勝つことがスポーツ本来の目標です。しかし「勝つ」ことには、別の飾りもついています。勝つことで有名になる。メダルをとって褒美をもらう、テレビにでて人気者になる。こうした外側の飾り物と、アスリートとしての本能の目標である「競走に勝つ」こととは、文字は同じでも、意味合いが違います。

スポーツとして勝とうとするのは内側の要素。レース後の栄光は外側の要素。

 前に述べたように、決して易しいことではありませんが、これを明確に区別出来るようになることが、アスリートとしての、最大の目標でもあるのです。

 なぜ難しいかというと、たとえ自分では分かっていても、自分の外側、いわゆる“世間”には、アスリートがもつべき価値観など、分からないからです。活躍して有名になれば、親も友人も大喜びです。テレビに出れば、親戚も電話をくれます。「見てたわよ!がんばってねえ」。いつの間にか、それに答えるために頑張ろうという気持になってきます。でも、自分の外側の要素は、自身とは関係ありません。自身、つまり本能は、あくまでもアスリートとして思い切りスポーツしたいだけなのです。そこに外側から割り込んでくる別の目標は、本能をフルに発揮する邪魔をします。雑念です。

そういう外側の要素は、常に変化し、信頼できません。人気があるなし、などは、自分自身の努力とは無関係に変化します。結局、外側の要素に頼れば頼るほど、自分自身は不安定の波に浮き沈みし、本来の集中が出来なくなっていくのです。

 

<見極める力>

 何が自分の外側の要素なのか、内側の要素なのか。

 集中力の発揮で最も重要なポイントが、この「見極め」です。

 オリンピックでメダルを取るようなアスリートは、この見極める力に優れています、と言いたいのですが(笑い)そうとは限りません。そもそも、メダルを取ったから偉い、人間的な面でも優れたアスリートだ、などと考えること自体がおかしいのです。なぜなら、速い強い、優勝する、といったことは結果であって、つまり外側の要素です。内側の闘いや努力は、外からは見えません。それはその人だけにしか分からないし、薬物違反をしたベテラン選手の例を見ても分かるように、その人が本当に優れたアスリートとして生きたかどうかは、その時だけでは何とも言えないのです。

 たとえ五輪でメダルを取っても、その後、どう生きていくのか。それが、実は問われてくるのです。

 ある陸上選手が日本人では至難とされていたレース種目で金メダルを獲得しました。すばらしい快挙です。でも、五輪の後で、あるイベントに招かれたとき、この選手は楽屋で「あの局の女子アナがさあ」などと、出されたお菓子をくちゃくちゃ食べながら品のない話を続け、挙げ句の果てに、菓子の包み紙をまき散らしたまま、お車代数十万円をポケットに入れて帰って行きました。しばらくの間はテレビにも招かれ、バラエティー番組でも笑いをとっていましたが、肝心の陸上競技ではそれ以後さっぱり記録も伸びず、いつの間にかスポーツ界からもテレビ界からも遠ざかる結果になりました。

 面白いことに、彼の指導者は「私はマスコミをコントロールして、彼を一流の選手に育てたのだ」と豪語していましたが、結局その選手はマスコミにちやほやされたあげく、その「外側の要素」に負けてしまったことになります。

 大切なことは、自分は何のためにこそスポーツをしているのか、はっきりと自覚することです。「誰かのために頑張る」という気持は良いことですが、それは大きな意味で自分を動機づけていく要素です。内か外かと言われれば、それはあくまで外側の要素であって、自分自身は自分自身がやりたいから、100%自分のためだけにやっていることなのです。

 プロ野球選手が「ファンのために頑張りました」とお立ち台で言うのは、口先だけでなく、心底そう思ってアピールしているのは確かですが、マウンドに立って必死の投球を続けているとき、そんなことは全く考えていないのです。もしそんなことを考えていたら、ポコポコ打たれてしまいます。

 

<活躍したい?>

 ある会社の入社試験の面接官を頼まれたことがありました。

 私は二人の候補のどちらを選ぶか、難しい選択を迫られました。1人は筆記試験は特別優秀ではありませんでしたが非常に活発で、なんにでもはきはきと答え、他の面接官にも好評でした。もう1人はややおとなしく、どちらかと言えば控えめでしたが、筆記試験はずば抜けていました。

 私はこう質問しました。「会社で、何をしたいですか」。活発な方は「ばりばりと、活躍したいです」。おとなしい方は「何でもかまいません、お仕事をさせてほしいです」。

 君なら、どちらを選びますか?

 私は活発な方は×、おとなしい方を○にしました。

 なぜなら、「活躍する」とかしないとかは、外見、すなわち印象の問題です。会社として必要なのは、仕事をしてくれる人です。

結局、2人とも採用となりました。1年後、活発な方は文字通りばりばり仕事して、「採ってよかった」と言われました。おとなしい方は「まだまだ実戦力には」と、言われていました。

 5年後、活発な方がたまたま地味な部署に移されると、自分から辞めていきました。おとなしい方はこつこつと気張らずに仕事を覚え、その後管理職にも抜擢されました。

 ちなみに、ですが
  最近、また「女性の活躍」ブームの波が起きています。そもそも、本来はそんな波がおかしいのであって、男女がともに、ごく普通に働き合うべきで、日本はその点ではまだまだだと思いますが、“活躍”という言葉がへんな誤解を生んで、逆に反感を買ってしまうこともあるようです。何も、ことさらに活躍しなくても、男性が地道に働いているように、女性も「女性でも男性と同等に」などと気張らず、普通に地道に働くのが当たり前でしょう。活躍、などというと、「自分が(自分だけが)他の人より輝きたい、めだちたい」という見栄や欲のようにも受けとられるのでしょう。
もちろん、過渡期だけに一部の人は必要以上につい頑張って、周囲に違和感を与えてしまうこともあるかもしれませんが、それはやがて、自然に解決されていくことだと思います。見守っていくべきでしょう。
   一方で、男女の別なく仕事の機会を均等に与えるのは、社会として当然で、女子スポーツ躍進の為にも米国のタイトル\の導入や、女性管理職の割合を5割に漏って行く努力は、日本社会が歴史に対する責任だと考えます。

 いずれにしても、アスリートだけでなく、1人の人間としても、「活躍していると思われたい」「人気者になりたい」といった、自分の外側の要素を最大の目標項目にしてしまうと、本来の能力を余すところなく発揮することに失敗します。

 1人の人間にとっての最大のテーマは、持って生まれた自分自身の本能の能力を、いかに思い切り発揮できるか、です。そのためには、外側に要素に惑わされず、本当の自分は何を求めているのか、見極めることです。それによって、最大限に集中力を発揮し、本能をフル活用することが出来るのですね。

 

 余談ですが、最近、インナーゲームの真似や、無断引用したスポーツ心理学の本がたくさん出てきました。真似されるくらいになったら本物だ、という諺がありますが、まさにそれで、著作権上の問題はともかく、それぞれが自由に理屈を展開してかまわないのです。ただ、集中力を発揮する最終目的は、何かを達成したり、栄光を獲得することではないのだという根源的な要素を分からずに、「いかに勝つか、サクセスするか」のハウツー本に留まっているものが多い点は、実に残念です。集中力を極限まで発揮する真のENJOY体験そのものが、ここでいう「集中力の発揮」の目標であり、真実なのです。むろん、その結果として、副産物として、「自分のベスト」が発揮され、最短距離で勝利を掴むことにもなるのですが。

 

<リソースの確認>

 アメリカの話です。あるマラソンレースに出場した女子選手が、無理と覆われるほどのペースでトップを走りながら、体力の限界だったのでしょうか、途中で倒れてしまいした。体力の限界まで出し尽くし、疲労困憊して足がもつれてしまった、というドラマチックな場面でした。後で聞くと「初めから完走できないと分かっていたの。あれは予定の行動よ。演技よ、演技」と、劇的な場面を自分で解説していました。リタイアまで“演技”だったとは驚いた話ですが、要するに期待が大きすぎて、体調が整わずに惨敗では格好がつかなかったのでしょう。むしろそれなら思い切って、というのが本心だったと思います。

 本当に初めから演技の計画だったとしたら、スポーツマン精神に真っ向違反する行為です。「惨めな負け型は恥だから」という見栄や外聞で、レースという神聖な舞台を汚したことは許せません。外側の要素に自分を見失った残念な例ですね。こういう生き方の人には、レースやスポーツの真髄を語ることは決して出来ないでしょう。

 もちろん、プロスポーツのレベルでは時に「演技」もあるでしょう。そのぐらいの余裕があることは、観客の側もむしろ歓迎するかもしれませんが、それなら潔く戦列を去り、「体調が整わなかった。ファンの方に申し訳ない」と正直にコメントすべきでしょう。人を騙すようなことをすべきではありません。なにより、自分を騙すような姿勢は、アスリートとして失格です。

 彼女は派手なリタイアを一つの選択肢として考えていたのは確かですが、本当は一か八か、やけ気味の状態で走り出したのではだいか、と。

 では、どうすべきだったのでしょうか。

 自分の本能に、素直に聞いてみるべきだったと思います。

 今、何が出来るか。自分の内側には、何があるのか、それを真っ直ぐに見て、正確に把握することが、集中力を発揮する原点とも言えるでしょう。これを「リソースの確認」と呼びましょう。会社の経営などで、今、本当の所、我が社にはどれだけの資産があるか、をより正確に把握することが第一歩であり、また危機を乗り切るための最も重要な作業だとされています。スポーツでも同じです。

 リソースは感情抜きの実数値です。現実です。その現実を受け止め、受け入れる覚悟が、アスリートには必要です。

 「何が何でも勝つだ」と意気込み、感情に流されてしまうのではなく、まず、正確なところ、今の自分にはどういう+要素があり、−要素があるかを、感情抜きでしっかりと見つめ、把握することです。勇気が必要ですが、特に怪我や不調で追い込まれたとき、あるいは「勝てそうだ」とばかりに過剰な自信があふれ出してしまっているときにこそ、リソースの確認をすることは、きわめて重要です。自分に正直になる、ということでもあります。その上で、「だからここまでは出来るのだ」「だから、完璧な状態でこそないが、今持ち合わせている全てを出しきるのだ」という覚悟を決める。これが、アスリートの心構えです。潔さ、ですね。怪我や不調のときこそ、リソースの見直しが、本能の能力を出し切る原点になることを覚えておきましょう。

 感情に任せてしまうから、無理なことをしたり、後で後悔するような演技をすることになるのです。感情は走りません。走るのは本能です。

 

<感動の美談の裏側>

 アスリートというのは、ある意味で孤独で、茶の間から見たときの「スポーツ文化」とは異なる舞台で闘っているのです。だからこそ、見栄や外聞に煩わされてはいけないのです。

 よく、フェアプレー精神という言葉を聞きます。

 こういう調査をしたことがあります。

“スポーツ精神”って、何だろう? アンケート

1,年齢            __歳                                         2、性別  @男性 A女性

3,高校時代の部活などスポーツは   @経験がある  Aほとんどない

 

4,貴方が柔道選手で、決勝戦に出たとします。相手は右足をねんざして、包帯を巻いています。過去に似た状況で、「怪我している相手(山下選手)の右足を攻めなかった」と、ラシュワン選手が国際フェプレー賞を受賞しています(1984年ロス五輪)。さて、貴方ならどうなさいますか? どちらかに○を。

@相手の右足は攻めない A必要なら相手の右足も攻める

 

5,テニスの決勝戦で、大変な接戦になりました。わずかにこちらがリードした時、相手が足を滑らしてバランスを崩しました。過去に似た状況で、清水善造選手が、わざとゆるやかなボールを送り込み、その精神を讃えらました(1920年全英)。さて、貴方ならどうなさいますか?どちらかに○を。

@ゆるい返球をする   A鋭い球でポイントを狙う

                                                    

6,陸上競技5000mで、体調が悪く、終盤、トップ2人に追いつかれてしまいました。過去に同じような状況で、インコースをトップ2人に譲り、自分は外側に出た竹中正一郎選手は、そのスポーツマン精神を賞賛されました(1932年ロス五輪)。さて、貴方ならどうなさいますか? どちらかに○を

              @2人にイン側を譲る     Aイン側をそのまま走る

 

 4〜6の例は、いずれも現実にあったことで、茶の間から見たときは1の方がフェアプレー精神に富んだ行為に思われがちですが、集中力を大切にするアスリートの側からは、すべて2が正解です。例えば4の例ですが、1984年のロス五輪、重棒無差別級の決勝での出来事です。山下泰輔選手は右足を怪我していました。このとき、ラシュワン選手が右足を攻めなかったというので、国際フェアプレー賞を受賞しました。世間的には、こういう「美談」が好まれるのです。

 ところが後で、優勝した山下選手は「ラシュワン選手は堂々と私の右足も攻めてきた。もし彼が手加減などしたら、それはスポーツマン精神に反することだ。けれど彼はそんな選手では無かった」と話し、ラシュワン選手も「最初に右を攻めて出たが、それを返された。フェアプレーというのは、手加減することではない。誤解されたのは残念だ。私は堂々と勝負し、堂々と負けた」と、話していました。

 1932年のロス五輪5000mの竹下選手も、後ろからトップ2人に追いつかれて、いかにもインコースを譲ったように見えました。アメリカの記者が「後続に譲った。日本人はすばらしい、謙虚な精神の持ち主だ」と記事を書いたことから、日本の教科書にも「美談」として載りました。けれど竹下さん本人は非常に憤っており、「私はそんなことはしていない。疲労困憊でよろけただけだ。インコースを譲るような、スポーツマン精神に反するようなことをする男でない」と話しているのです。

 テニスの例もそうです。自分ではスポーツをしない、現場を知らない、いわゆる「書斎派のスポーツ評論家」は、このアンケート回答で大変な恥をかきました。

 そういう世間の「安易にドラマを求める目」を逆に利用して、自分のスポーツを虚飾する人もいます。前述の女子ランナーの「演技」がその例です。

 でもスポーツは嘘をつかない。アスリート自身は嘘をつかない。

 あくまでも「外側からの雑念要素」を排除して、自分の本能のすべてを出し切ることが、スポーツのテーマなのですから。

 

<潔さ>

 人生には三つの坂があると言われています。

 上り坂、下り坂、そしてもう一つ、多くの人が忘れている「まさか!」です。

 スポーツでも同じです。

 中学、高校では、それこそ若さのパワーで、基本的にはぐんぐん伸びるものです。

 ところがいったん頂点近くに達して、あと一息で(自分にとっての)チャンピオン、というあたりに来ると、いくら練習してもタイムが伸びない、逆に落ちていく、といった壁に突き当たります。

 ベテランになれば、こういうジレンマは日常茶飯事になります。

 今度こそいいタイムが、と自身を持って臨んだレースで、それこそ「まさか」とおもうようなひどいタイムになることも、しばしばです。逆の「まさか」も、もちろんあります。だめだと思っているときに、逆にあきらめからリラックスできたのか、自己ベストが出た、などという例も、よく見かけます。

 問題は、そういう「まさか」をどう受け止めるかです。

 いいときも悪い時も、「これは本来の自分の結果ではない」とするのも一つの考え方ですが、集中力の原則からすれば、「これも自分」と、しっかりと受け止めることが大切です。

 特に結果が悪かったとき、無視すれば楽かもしれませんが、実際には無視することが出来ず、いつまでもネガティブな感覚が残ることが多いのです。

 述べてきたように、集中力の原点は「真実」、自分の本当の実体です。感情とか気持ちは、その時々で揺れ動きますが、それはそれとして――「やるぞ!」という意気込みはそれはそれでいいのですよ――自分と自身を分けたときの“自身”に冷静に、正確に接し、把握できるかどうか。まずここが境目になります。

 いつでも100%ではありません。予期しない不調が必ずやってきます。予期しない好調の波に乗ることもあります。それらを、そのまま認め、受け止めること。言い換えれば集中力発揮のスタート地点はスリーとの「潔さ」だといえましょう。

 潔さ。

 不運も受け止めましょう。受け入れましょう。年齢による下り坂も、「何が、どう弱くなっているのか」をしっかりと見つめることで、受け入れましょう。

 もちろん、アスリート生活、大げさに言えば“アスリート人生”のなかの「大きな目標」を立てるのは思考であり感情、気持の分野ですが、その判断の基本材料としては、やっぱり「無欲無意識」の、本能の能力の実数値の把握が最も重要です。現実を軽視してやる気にはやっても、それは頭の中で堂々巡りしているだけで、実際にはマイナスになります。自分の本能の能力を無視している以上、本能はそのフル能力を発揮できません。無理な目標を頭で命令されても、自分自身は実行できませn。また逆に、低すぎる設定をされたら、自分自身だけが知る“不完全燃焼状態”で、本当のENJOYが味わえないのです。

 ちなみに、逆境の強さについて前に述べましたが、その原点もやっぱり潔さ。与えられた条件を自分の中に受け入れ、感情や思惑、計算、意欲を含めた「雑念」を排除した“実数値”で、現実として受け止めるところから、奇蹟の逆転劇、本能能力のフル発揮が始まるのです。

 

<マスコミの感動志向>

 私自身、マスコミの世界で様々な仕事をしてきました。初めは現場の記者で、寒空の下、震えながら何時間も選手を自宅前で待っていたこともあれば、こうと感じた記事の切り口を上役に書き直され、ところが翌日さらにその上役から「これは何だ」と叱られたこともありました。元々私が言い出したことが正解だったのですが、直接の上役は「私はそう言ったのに、後藤が」と、嘘をついてこちらに責任をかぶせるわけです、皆人間だから、弱いのは仕方ありませんが、そういうことが、10回連続したこともありました(笑い)。仕事の世界はそういうもので、学生時代にバイトで苦労した体験があった私は「しょせん、こういうものさ」と、別に腹も立たず、むしろ直接の上役に同情したくらいです。

 でも、読者の側にしてみれば、上役も意地も嫉妬も関係ありません。マスコミは、常に、正しくて面白い記事を提供しようとするのが本来です。それが、今言ったように、なかなか通りません。現場で掴んだ「現実の感覚」を、人間で言えば思考部分である上役デスクがねじ曲げてしまうわけです。記者が本能の自身、上役を自分と置き換えれば、話はよりいっそう分かりやすくなるでしょう。必ずしも現場の感覚が正しいとはもちろん限りませんが、優れた上役は、現場の感覚を優先しながらも、最終的には自分の体験、すなわち知恵と照らし合わせて判断するものです。そういう優れた上司にもたくさん出会ったことは幸運です。

 一方で、スポーツという宇宙の周りを要領よく飛び跳ねて、仕事ではなく、自分をPRしようとする記者もいました。自分はこうした、ああした、だから一流で有名で、偉いのだと、言いまくっている内に本当に自分は偉いのだと勘違いしてしまうようです。元代表選手にもそういう人はいますが、こんな姿勢ではしょせんスポーツの核心部に切り込むことは出来ませんから、ただありきたりのエピソードを持ち寄って外側で騒ぐだけで、中身のない話に終始しがちです。仕事場に香水振りかけて現れるひんしゅく女性に似てますね。

 マスコミというのは、嘘八百、軽薄短小でも生きていけるのが怖いところで、むしろその方が何かと好都合、テレビの短い時間のコメントにめんどうくさい本質論など持ち込まないでほしいわけで、テレビに出たがる上記のような“評論家”とは、利害は一致しているのです。

 オリンピックにしても、では見ている人が何を望んでいるかについても、マスコミは勝手な勘違いをしています。あるとき、こんなアンケートをとりました。マスコミは、ことさらに「ドラマ」を求め、視聴者も「感動」したがっていると、つまり回答ではBを優位に考えますが、実際は違います。

 

 問い)オリンピックの魅力は? 一つだけに絞って○をつけていただけますか?

 @真剣・神聖な頂点のたたかい Aスーパーヒーローの登場 Bドラマチックなストーリー C地元日本勢の活躍 Dその他 E関心は無い

 

 幅広い年齢層を対象に調査をしたところ、60歳以上はさすがに「C日本の活躍」を選びましたが、全体の5割以上が、@の「真剣なたたかい」そのものを選びました。競技の後の騒ぎではなく、競技している最中の選手の横顔が、一番見たい対象なのです。おそらく、見る人も選手と一緒に緊張し、集中し、それをENOJOYしたいと感じているのだと思います。ドラマチックなエピソードが主役ではなく、競技そのものが、やっぱりオリンピックの主役なのです。マスコミには、それが分かっているでしょうか。

 裏を返せば、アスリートは、マスコミに踊らされてはならない、価値観をぐらつかせてはならない、ということです。科学分析やや独占インタビューだからといって優れた番組とは限らない一方で、時間の長短にかかわらず、スポーツの真髄に迫るコメントや番組も必ずあります。アスリートはアスリートの目で判断しましょう。NHKのスポーツコーナー・アナや松岡修造さんのコメントのように、です。

 

(つづく)

 未整理項目

<リソース>

<自動力>

<選択>

<内側の感覚>ストレッチ

<コーチのメニュー>

<逆境>

<アンダーマイニング理論>